2022年5月で経営者になって20年を迎えます。
またコロナ禍のピンチをチャンスにするために会社としても大きな変革の年になります。数回に分けて経営者になってからの20年間を振り返ってみたいと思います。
父は紙問屋の経営者でした。
3代目である私の代で紙関連は事業譲渡しました。
今は東京の真空成形金型会社と札幌の鉄工所・プレス加工会社を経営しています。
差別化するために、他では出来ない納期や加工方法の組み合わせ、M&A、新規顧客開拓を試しています。
20年前に潰れそうだった父の会社を買い取った時に、友人から「何故潰れそうな会社の事業承継を選んだのか?」と質問された事が多くありました。
その理由の一つは小学生の時から知っている社員の生活が心配だったからです。
父の会社に入社する前に勤めていたアメリカの会計事務所では日本人社員は私一人でした。クライアントの日系企業は全て私が担当しました。当時日本の大手メーカーが現地にあり、そこに納める部品の中小製造会社の現地法人もありました。その会社の決算は毎年赤字でした。
「なぜ、撤退しないのか?」と社長に食事をしながら聞いたことがありました。
答えは「こちらの仕事を切ってしまったら、日本の本社の仕事がなくなる」というものでした。
後日、その大手メーカーに対して節税対策を行うスキーム(私のアメリカでの本業でした)のプレゼンを行いました。結果は不採用。
欧米の会社でしたら採用しなければ財務部長は解雇されてしまってもおかしくない案件です。理由は「以前に節税を行ったら大手新聞に脱税のようなイメージで報道され、売上が下がった経験がある」からでした。
しかし、その当時の日系企業は節税スキームを使用するのが当たり前の欧米企業と互角以上に戦っていました。なぜ、互角以上に戦えたのか?下請けの中小企業が支えていたからだと思いました。中小企業の息子として育った生い立ちとその経験から中小企業を絶対に守りたいと思っていたからです。
一つは経験の為。当時の僕は資産など持っていません。例え再建に失敗しても資産が無い事は変わりません。しかし32歳で「10億超の売上を持つ会社を潰す」という同世代では100人に一人もいないような経験が出来る貴重なチャンスだと思ったからです。最後は意地です。
その昔、創業者である祖父に中学受験が終わった際に「どうだった?」と聞かれ、「国語が…」と言うと、一言で「ダメだな」と言われた事(合格しました)がありました。
また祖父は中学生の時に親族で集まった際に従兄弟を「こいつは根性があるから、後継者だ」と言っていた事もありました。祖父にとっての初孫である私は、その言葉がとても悔しくて、その頃から経営者であった父や叔父達を含む実家に対して「認めさせたい」という思いを持っていたからです。
1本の電話で生活は一変しました。
1997年から2000年まで3年ちょっとアメリカにいました。
途中からKPMGで働くようになり、2000年の秋に結婚しました。しばらくアメリカ生活を楽しむ予定でしたが、それは父が経営する会社の経営状態が良くないというものでした。
試算表をFAXしてもらいました。同業他社との比較が出来ないので断言は出来ませんが、感覚的に悪い数値でした。売上は13億程度ですが3年連続赤字。借入金も10億近くありました。
洋紙卸売業の在庫回転率が分からないのでなんとも言えませんが、在庫も多すぎる気がしました。結果として直感は当たりました。
2001年1月に帰国を決め、3月から父の会社で働き始めました。社長である父から特定の仕事の指示も無かった為、小さな会議室で一人こもって毎日過去10年分の決算書を分析しました。売上は18億から13億に下がっていました。社員の平均年齢は50代半ば。固定費は10年前とあまり変わりがありません。
受注を受ける部署は朝一の時間と夕方は忙しいものの他の時間は社員が通販雑誌をめくっているほど暇でした。しかも基幹システムがあるにも関わらず、受注を手書きメモで現場へ指示し、後からシステムに入力するという二重作業を行っていました。
実はこれには理由があった事に後で気がつきました。最も悪い事は、社長である父が「今は景気が悪いから」と赤字の原因を外部に求めている事でした。
入社した翌年の1月末に大口顧客が不渡を出しました。これまで具体的な仕事の指示をしてこなかった父から声をかけられ、入社後初めて社長室で2人きりで話をしました。
不渡の事実を知らされ「残念だがもう出来る事はない」と言われました。それが初めて父が仕事に関して具体的に私に言った言葉でした。怒りが込み上げ「僕がなんとかするから任せろ」と言っていました。
それは、10年分の決算書の分析を行い具体的な再建案の構想が頭にあった事と、小さい頃から意識していた実家に対する意地だった思います。絶対に忘れられなかった想い「父や叔父達に認めさせてやる」、それを実行出来るチャンスが来たと思いました。
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