城南村田が運営するニュースメディアの名前が、なぜ「日刊面白半分」なのか、少しご説明させてください。それには運営する株式会社城南村田という大田区の小さな町工場の歴史を少し振り返ることが必要です。
城南村田と「日刊面白半分」の歴史
かつて、「面白半分」という伝説の雑誌がありました。
初代編集長は吉行淳之介。
「面白くてタメにならない雑誌」として刊行され、1971年12月から1980年まで発行されました。当時の人気作家が原則半年交代で編集長を務めました。
吉行淳之介(初代)、野坂昭如(2、8代)、開高健(3,10代)、五木寛之(4代)、藤本義一(5代)、金子光晴(6代)、井上ひさし(7、14代)、遠藤周作(9代)、田辺聖子(11代)、筒井康隆(12代)、半村良(13代)、一松二生(14代)、田村隆一……錚々たる面々が編集長を務めたのです。
1972年7月号で、編集長の野坂昭如が永井荷風作といわれる「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発されました。結局10年ほど続いた後に、発行元の株式会社面白半分は倒産します。
実は、株式会社面白半分の佐藤嘉尚氏に協力して、雑誌「面白半分」の発行人を務めたのが、株式会社城南村田の前身である株式会社城南洋紙店の社長であった青沼繁汎です。
元々城南洋紙店時代は紙問屋でした。紙を売っていたのでは先が無いと考え、工場を買い取りました。その後、株式会社城南村田となり、紙の事業を譲渡し、今は大田区蒲田で金型製造とトレー成形(フェイスシールドとソフビも少し…)を行うようになりました。
そうなんです。「日刊面白半分」の名前は、雑誌「面白半分」から拝借したのです。
雑誌「面白半分」初代編集長の吉行淳之介は、「面白半分とはHalf Seriousなんだ」と書いています。
新しいことは、Half Seriousくらいでないと始まりません。
新しいことは、とりあえず始めることが大事です。真面目に考えすぎると進めません。
モノを作る新しい仕組みを創り、モノづくりで社会に貢献したい。
そういう想いで「日刊面白半分」と名づけました。
私自身50代になり、残りの仕事人生は少なくなってきました。
50代の10年は「日刊面白半分」で情報発信しながら、町工場の新しい姿を面白半分(Half Serious)な商品づくりを通じて、実現したいと思っています。
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